「対価を…払え…」
もうひとりの小狼の存在と引き替えに生まれた、次空のひずみ。
全てから断絶されたこの世界から脱出するための、わずかな望み。
そこに響き渡る飛王の声は、二人を絡め取る闇からの触手と言えた。
「飛王…!」
「対価を渡さないと、ここから出さないという事なのか!?」
「おれが渡せるものなら…!」
消えた小狼が残した。一枚の羽根。それを右手に握りしめて、小狼が答える。
「対価を与えすぎても、奪いすぎてもいけない。
必要以上のものを渡したら、傷がつく。
…現世の躯に、星世の運に、天世の魂に…。」
小狼の手を取り、君尋が応える。
その言葉は、彼と侑子が初めて出会ったときに教えた、『対価』の考え方だった。
「侑子さんがいればふさわしい対価を教えてくれるかもしれないけれど…
今は…居ないから。」
本来は、自分が言うべき言葉ではないと感じている。それでも、もし彼女が此処にいれば、きっと発するであろう言葉だと、彼は考えた。
「自分の事は、自分ではわからない。
けれど、おれ達は同じだけど同じじゃないから、分かるかもしれない。
お互いの対価が、ここから出るのに見合うのか。」
「…飛王が、最後にかけた呪い…」
「大事なものでなければ、対価にならない。」
二人は、互いを見交わす。そして、瞳を閉じ、一人が遺した羽根に手を合わせ、胸の奥にある答えを引き出す。
「対価は」
…それが何かは、口に出さない。それが、決して軽くないものであることは分かっている。けれど、必要十分であるのかは、分からない。いま、二人が出せる、それぞれの最大公約数。その想いを、言葉にする。
「…ここから出ても、何もなかった事にはならないと分かってる。
おれが決めた事で、悲しむひとも怒るひともいるだろう。
それでも、この対価をおれは選ぶ。」
「おれもこの対価が正しいとは思わない。
…それでも、待つって決めたから、
おれはこの対価を選ぶ。」
…選択は、為された。
二人を幽閉する次空の檻が崩れ散り、まばゆい光が二人を包む。
そして、それは二人を異なる世界へと分け隔てる力に変わっていく…。
最後に君尋は、小狼の右手と彼の手の中にある羽根に手を合わせ、呟いた。
「おれを存在させて(産んで)くれて、ありがとう…」
玖楼国、遺跡の水場。
長い戦いを終え、平穏を取り戻した聖なる空間。
止めどなく流れ落ちる、清らかなる水の流れ。
ようやく戻り着いたその場所の、彼が立つ視線の先に、彼女は立っていた。
…両手で一枚の羽根を握りしめ、瞳には止めどなく溢れる温かな涙を貯えて。
「わたしが…
もうひとりの…わたしが……
消えて……。」
ファイ、黒鋼、そしてモコナ。…押し黙る彼らの表情。
全てを語らずとも、小狼には事の成り行きが把握できた。
「こうなる事は分かってたって…
でも…小狼は帰ってくるから……。」
小狼は、さくらの元へと歩み寄る。
「わたしと、小狼と、ふたりの記憶があれば…
終わりじゃないって…。
だから……。」
その言葉は、まさしく以前夢の世界でもうひとりのさくらが発したものであり、彼女のこころであった。
そして彼女が言葉を継ごうとしたとき、突然、彼女の手にある羽根が、まばゆい光を放ち出す。
次の瞬間、二つの羽根が二人の手から離れ、宙に浮く。そして…、それぞれの躯へ、吸い込まれるように取り込まれていく…。
「!」
後ろへと倒れ込む、二人。それを、黒鋼とファイが受け止める。
再び、静寂が訪れた水場。黒鋼は、受け止めた小狼の額を、コツンと小突く。
「…あいつは殴られずにいきやがったからな。
おまえが受けとけ。」
ファイは、涙を流したまま眠るさくらの顔を見つめたあと、一言呟いた。
「今は眠って。ふたりとも。
それから、始めればいいから…」
ファイ、そして黒鋼。二人の瞳に、戦いに勝った満足感は無い。戦いを終えた二人を支配する感情。小狼もまた、彼らと同じ想いで中空を眺め、答えた。
「…ありが……とう」
一筋の涙が、頬を伝う。
永らく針を止めていた玖楼国の時計が、動き出す。
そして…、遺跡を包む暗闇を打ち破る朝日が昇りゆく。
彼らの呪縛を、解き放つように…。
〜ツバサ−RESERVoir CHRoNiCLE− 完〜