「小狼の声!」
御嶽の内部から響き渡る、小狼の叫び。それは、明らかな形で変化を見せる御嶽の様子を見ても、凶兆である事は間違い無かった。
「いい加減にしろよ!てめぇら!」
黒鋼は、傍観する二つの宙に浮く目である、右近と左近に言葉の礫(つぶて)を投げつける。
「おまえらの姫神は何してやがるんだ!!
神に仕える身なら、話つけてここをあけさせろ!」
だが、ふたりは答える。
「…やっている。」
「出来ることを…な」
無表情の中に、苦悶の色を交えながら。
右の手のひらに、精一杯の力を込める。
それが、か弱いほどの握力に過ぎなくても、瀕死のもうひとりの小狼が彼に何かを伝えようとしている事はすぐに察する事が出来た。
「それ以上…、
力を…つかったら…、こわれる…。」
もうひとりの小狼の瞳は、もはや視線の先にある小狼の姿を捉え切れていない。
それでも、彼は握りしめられた掌のぬくもりに小狼の存在を確信し、彼に『選ぶべき行方』を伝える。
「みんなが…、サクラが…まってる…。
もど…るんだ…
みんなの…ところ…へ………」
小狼へ、曇り無き想いを伝えると、その腕は力を喪い、彼の手からすべり落ちる。
「決した。」
小狼に大きな代償を強いた戦いの終結を、淡泊に告げる御嶽の声。
小狼からこぼれ出るのは、血と混じりあった幾筋もの涙と、悔恨の歯軋りの音だった。
「ユタよ。
『神の力(セジ)』を使うことを許そう。
ニライカナイよりニライカナイへ、還れ」
御嶽の中に、生命の脈動音とともに、無数のまばゆい光が浮かぶ。
それは、小狼に同行した少女の躰にもまとう。
『神の力』。それが、発動しはじめた証だった。
…それが、突然動きを止める。
不意に場を支配する静寂。
御嶽は、不測を語る。
「…こちらのニライカナイに入る折、持ち物は全て海へと捨て去らねばならない。
身の内にあるものの他は…。」
その声を聞く、小狼。涙を流し尽くした瞳には、冷たい覚悟が宿る。
「もし捨てきれなくても、番人が持ち込む事を許さない。
…見逃されたか、彼の者に…。」
御嶽は、孔雀の裏切りを悟りながら、言葉を続ける。
「それでも、この御嶽には己以外を持っては入れない。
それだけの力を、ユタが持つ故か。
それだけの力を持つものから、譲り受けた何かか…。」
小狼の懐から漂い出す、かすかな瘴気。
それは、やがて巨大な邪気となる。
「御嶽に穢(ケガレ)を持ち込んだな。ユタよ」
その源は、首だけがもげたうさぎのマスコット。
四月一日の元を訪れた女性が、もうひとりの女性にかけつづけた呪詛の果てに受けた報復の形だった。
「今、止めた時を動かせば、穢が広がり、
御嶽は斎場(セーファ)としての神聖性(ちから)を失う。
御嶽を穢したユタに、このまま『神の力』を使わせる事は出来ない。
即ち、魂を生のニライカナイへは還せない。」
御嶽は、ニライカナイの理に違(たが)えた行いを為した小狼に向かって言い放つ。
しかし、小狼は短く答えた。
「還す」
予想外の反応に、御嶽がたじろぐ。
「還す。ここにいるひとたちを、表へ。生の世界へ。
…それさえも出来なかったら、おれは何の為に小狼をここへ呼んで、戦って、傷つけたんだ…。」
もはや動く事のないもうひとりの小狼の躰を抱きかかえ、問答するように小狼が答える。
「止めた時で、何故動ける…?」
「還す。必ず」
御嶽の問いかけに応じることなく、小狼は三度同じ答えを言い放つ。
「…それ程の意志の力を持つというのか。このユタは…」
小狼は、御嶽の呟きに一切応じなかった。
動かなくなった躰を左腕に抱きかかえたまま、彼は右掌のもげたマスコットの首を宙に浮かべる。
「やめろ!」
御嶽が小狼に与えた、猶予の刹那。それは、理に背いた小狼の咎を、小狼が克ち得た『ユタ』としての力を放棄することで、水に流さんとする提案だった。だが、御嶽の抑止は、もはや小狼の耳には入らない。『己』を殺してまで果たそうとした務めに、いまさら顧みる『己』は存在しなかった。
刹那が再び、動き出す。
「ユタよ、その強き意志の元、『神の力』を使う事を許そうと判じたが、
御嶽を穢すならば、滅せよ!」
御嶽をなす樹根が矛となり、一斉に小狼に向けて襲いかかる。
次の瞬間。
突如、凄まじい勢いで、水が押し寄せる。それは、小狼を掠(さら)い、御嶽の矛先を躱(かわ)すとともに、御嶽の場を打ち砕く。
「御嶽が!斎場が!」
絶叫をあげる御嶽。次の瞬間、勢いを増した水は、ついに御嶽の場を八つ裂きにする。
水は、御嶽の外で待つ者達をも押し流す。
「水が!」
「小狼達、どうなっちゃったの!?」
「くそ!!」
黒鋼ですら抗いきれないほどの流れが、彼らを襲う。……
暗い、ただ暗い世界。
倒れたまま、動けない小狼。
そこに、錫杖を持った一人の男が現れる。
「凄いね」
躰を動かせず、倒れたままの小狼。かろうじて眼を開け、視線を声の主に向ける。
「御嶽の意志を振り切るだけじゃなく、己の意志を貫き通すとは。」
小狼は、答えなかった。いや、意志はあっても、声に出す事は能わなかった。
「うん。
本当は君が持っていたあの人形も取り上げなければならなかったんだけど、
あの渡し銭が貰い過ぎだったから。」
錫杖の主、孔雀は、笑みを浮かべた表情を崩す事無く、言葉を続けた。
「あとは…、見てみたかったからかな。
…何をかって?」
彼は問いかけを察して、答えを返す。
「君が何を選んで、どうするのか。
そして、君を助けたいひとたちが、どうするのか。」
孔雀は、錫杖で宙に円を描く。そこに映し出されたのは、水の中で祈りを捧げるさくらと姫神の姿だった。
「あの時、御嶽の中は時が止まっていた。
時間が流れない、夢の中のように。
だからふたりは、夢を伝って御嶽に水を運び込んだ。
…君を、あの場から逃がすために、ね。」
孔雀は、改めて小狼に視線を向ける。
「例え、力がある夢見でも、容易じゃない。
いや、不可能に近い。」
その言葉を裏付けるように、水を運び終えた二人は、互いの手を取ったまま昏倒する。
「それでも、あの子達は君を助けたかったんだろう。
外で待っていた仲間達も。」
小狼は、孔雀が伝えた言葉の真意を悟る。
言葉を発せぬ小狼だが、その表情に灯った『意志』を認めると、孔雀は「さぁ」と錫杖を鳴らして彼を促す。
「そろそろ起きてあげないと。
待ってるよ、みんな
…いつ目覚めるかわからないひとを、ずっと待つのは…辛いから」
その言葉を聞きながら、小狼はそっと瞳を閉じた…。