小狼がいない場を狙い、死の森の樹根が残された者達を襲う。
「邪魔なんだよ!」
黒鋼が刃を向けると、一部はその動きを見切ったように頭上を越え、彼らの背後に回る。
「邪魔はそっちだ」
巨大な目玉から横槍の声がこぼれる。
「御嶽には招かれたものしか入れねぇ。
そこまであんた達が付いてこれたほうが、よっぽど珍しいんだよ。」
「…それだけ、今回のユタの願いと力が強い、ということだ。」
右近と左近は、傍観者として正確な分析を述べる。
「うるせぇよ」
黒鋼は向かい合う先を変え、刃を構え直す。
そして、静かな、しかし大きな怒気を秘め、握った刃・銀龍に己を掛けて眼前の声の主に告げる。
「ユタだがなんだか知らねぇが、もし小僧と姫がまた泣くような事になったら、
てめぇら全員、叩っ斬る!」
「あの子達は十分傷ついた。もう、辛い想いはさせたくない。だから」
ファイは瞼を閉じる。浮かぶのは、長い時を、濃い不安の霧に覆われながらもまっすぐに『未来』を信じて歩んできた小狼とさくらの姿。そして、瞼を開けるや、決意を込めて彼は言い放つ。
「おれも同じだよ」
ファイもまた、黒鋼と同じ相手に対峙する。…トレードマークとなった笑みを表情から消し、左の指先には魔術の光を点らせて。…
「この世界の…すべて…?」
―――御嶽の中では、小狼がもうひとりの小狼に、困惑を隠さずに問いかけた。
そんな彼に、無邪気な少女の願いが追い打ちを掛ける。
「御嶽に来たんです!
どうぞ連れていってください!」
「本当にわからないんだ。
一体、おれは何をすればいいのか」
「『セジ(神の力)』を用いて、私達をニライカナイへ。」
「ここはニライカナイだろう?」
「そうです。ここはもうひとつのニライカナイ。
死者の魂の集う場です」
「死者…」
彼を驚愕させる事実を告げた後も、彼女は言葉を続けた。
「私達はこのニライカナイで、ずっと待っていました。
ユタが、いらっしゃるのを。
どうぞ私達の魂を、生者のニライカナイへ連れていってください!」
両の掌を合わせて、彼女は口にする。『神に、切なる祈りを捧げる』かのように。
「それは…『生き返らせる』ということか…?」
彼は左の掌で、左目を押さえる。…かつて、もうひとりの小狼に『封印』として託した眼を。そして、答える。
「出来ない…。死んだものを蘇らせるだなんて」
「…蘇らせるんじゃない。
生まれ変わるんだ。神の力を借りて」
「…生まれ…変わる?」
小狼は向き返る。そこに立つもうひとりの小狼は、どこまでも真顔だった。
「そうです!」
二人の会話の間に割って入る少女。
「私はずっと待っていました。
死者から生者へ、生まれ変わってまたニライカナイへいける時を!
その力を持った神の代行者、ユタを!」
彼女の言葉を受け止めた上で、小狼は言う。
「そんなこと…おれに出来る筈がない…。
出来るなら、君尋がずっと待っているひとを…
小狼とさくらを、とっくに取り戻してる!!」
彼は、拳を固く、固く握りしめる。…誰もが願い、決して変えることができない理を前にした、無力感を前に。
もうひとりの小狼は、彼が返す答えを見透かしていた。小狼が戸惑いの中で押し返した言葉を、眼を閉じて聴き入れたうえで、
「…選ばれたんだ。」
と言った後、そっと両手を彼の前に出して拳を開く。爪痕が残る掌を握ったまま、彼は言葉を続ける。
「『黄泉に触れた者』、
ニライカナイの異変を変えられる者として。」
「姫神も言っていた。
…『異変』って何だ!?」
もうひとりの小狼は、瞳を閉じて、彼に伝える。
「…ニライカナイには、長くユタが現れなかった。
死と生の狭間に触れ、尚且つ、そこから戻ったもの。それだけでも極、稀だろうに。」彼は、言葉を選びながら小狼に説明を続ける。
「ユタには、『力』が必要だ。」
―――その頃。ネガイをかなえる、ミセ。
「なんだ…?
胸が…」
盆に載せた二つの大ぶりの杯(ぐい呑み)を運ぶ四月一日が、突如胸の異変を感じ、うずくまる。
痛む躰を強いて、眼を見開く。その先に見えるのは、此処とは違う世界。
「小狼!?」
彼は、眼を疑った。
そこに写るのは、モコナを通しても視ることができない世界に赴いた小狼と、再会することすら能わぬもうひとりの小狼の姿だった。…
「…小狼達が最初についたニライカナイは、生者の場。
そして、今いるニライカナイは死者の場。
生と死は隣り合わせ。
けれど、決して交じり合うことはない。
生者は死者の場にいけないし、
死者は生者の場には入れない。
…それが、理だった。」
―――夢の世界。
しっかりとさくらの左の掌に右手を重ねたまま、姫神は幼さを残す顔に緊迫をにじませて語る。
「けれど、それが崩れ始めている。
ユタになれるものは稀だ。
そして、本当に長い間、ニライカナイにユタは現れなかった。
何度、季節が巡っても。姫神が、何度入れ替わっても。
死者はずっと死者のまま、ニライカナイには還れなかった。」
「…待ってくれ!
表のニライカナイに、ひとはいた!
もし長く生まれ変わっていないなら、あのひと達は…」
―――『表』のニライカナイを自らの足で踏みしめ、五感で地を豊かさを感じた小狼は、そのまま言葉を受け入れることはできなかった。
だが、もうひとりの小狼は、
「殆どが、姫神の加護と地の利から移り住んできた者達だ。」
と、反論を一蹴する。
「…『還りたい。生のニライカナイへ。』
その想いが、交わらない筈のふたつの世界の境界を溶かし始めた。」
姫神がさくらに語る言葉は、そのまま小狼への言葉に重なる。
「…なら…、あれは…」
「侵食してきた死のニライカナイを視たんだろう。ユタの眼で」
「…だから、おれに視えているものとみんなに視えているものが違ったのか…」
もうひとりの小狼は、ニライカナイが直面する問題を、隠さず、まっすぐ彼に伝える。
「ニライカナイは生者の為の場であり、死者の為の『根の国』でもある。
けれど、今は死者の願いのほうが あまりに強い。
このままでは…死者の想いに覆い尽くされて、
ふたつのニライカナイは融け合って『根の国』になる」
「死者だけの国になるということか…?」
小狼は、ようやくこの国を襲う危機の本質を掴む。
そんな彼を、場を支配する者の声が包む。
「その前に、選べ」
…威圧的に、急かせるように。
小狼は、あまりにも大きな選択を迫られる。…